【旅日記】2018年7月1日 バンタルワル村 訪問 ( 同行 )

ロームシャ。
日本語の「労務者」がインドネシア語化した言葉の一つです。
– 今回の仕事はどうだった?
– ああ、ロームシャみたいな仕事だった。二度としたくない。
というふうに使われ、低賃金で重労働の仕事を意味します。第二次世界大戦中に日本軍がインドネシアに持ち込んだと言われています。

今回は、かつて「ロームシャ」として日本軍に人生を大きく変えられた一人のインドネシア人男性の足跡を辿る旅でした。

カリヤ・ウィルジャ
1923年ごろ 中部ジャワのバンジャルネガラ県バンタルワル村で長男として誕生。
1943年 日本軍にタイに連行され、泰緬鉄道の建設に労務者として働く。
1944年ごろ 建設現場を脱走。
以降、泰緬鉄道近くの村で生活。
1980年 元陸軍通訳・永瀬隆さんと出会う。
1995年 生まれ故郷・バンタルワル村に帰還。
1998年8月14日 死去。

今回のお客様は日本の放送局の方。ウィルジャさんの52年ぶりの帰郷を実現させた元陸軍通訳・永瀬隆さんの映画を製作した監督の方です。
永瀬さんの取材を行ったタイでウィルジャさんにお会いになっていたのですが、ウィルジャさんのインドネシア帰郷には事情があって同行できず、それから20数年間ずっと心のしこりになっていたそうです。今回、永瀬さんの映画がインドネシアの映画祭「World Film Awards」で金賞を受賞し、ジョグジャカルタで行われる祭典への出席のためこちらへ来ることになり、積年の宿題を清算すべく、いざバンタルワル村へということでご依頼をいただいたのでした。

ご依頼をいただいた時点では、ウィルジャさんの部分的な経歴と村の名前しか情報がなかったので、事前にバンタルワル村へ調査に行くことから始めました。とりあえず村の役場に行ってみたところ、ウィルジャさんが帰郷したときのことを覚えている役人がいて、ウィルジャさんのご親戚を紹介していただけました。すぐにウィルジャさんを覚えている方に出会えたのは幸運でした。その足でアポイントなしでご親族の家へ行ったところ、快く話をしてくれ、お客様の訪問もOKしてくれたのでした。

旅は、ウィルジャさん・永瀬さん一行が村へ帰る前晩に泊まったジョグジャカルタのホテル「サンティカホテル」からスタートです。朝7:00に出発し、車はボロブドゥールを通過しバンジャルネガラ県へ山道をひたすら走ります。バンタルワル村に着いたのは11:00前。事前にウィルジャさんのご親戚の方には連絡を入れていたのですが、驚いたことに先日調査のときにお会いした方だけではなく、親戚一族が全員集合して待っていてくれたのです、しかも数名は正装までして。家の中には全員が座れるように絨毯が敷かれ、スナックやお茶が用意されていました。早速ウィルジャさんに関してインタビューが始まります。当時の新聞記事のコピーやウィルジャさんの写真・遺品なども回され、映画のダイジェスト版のDVDをみんなで観、質問と答えが勢いよく飛び交います。

12:30になって、お昼ごはん。鶏料理2種類、野菜料理2種、豆腐やテンペ。これは村の方が普段食べる昼食の3倍や4倍の品数にあたります。朝から女性たちがせっせと用意をしてくれていた様子が目に浮かぶような、手作りのおもてなしでした。

昼食の後はウィルジャさんのお墓にお参りし、別のご親戚の方の家で手作りコーヒーをいただき、さらにはもぎたてのココナッツを食べさせてもらって、最後には全員で写真を撮り、大量のサラッ  とココナッツをお土産にいただき、村を後にしたのは15:00ごろでした。

この話は、ウィルジャさんが日本軍に突然連れ去られたことから始まりました。帰郷を支援したのが1人の日本人だったとは言え、「一族は日本人に対してどんな感情を持っているんだろう」と最初はすこし不安でした。でも、事前調査に行った時も、今回実際にお客様と行った時も、一族全員が心から歓迎してくれていることがよくわかりました。とても美しい心をもつ人たちに出会えたという思いが強く残る旅となりました。

と同時に、ウィルジャさんの人生を弄んだ日本軍の罪の重さを感じました。もし強制連行されなかったら、ウィルジャさんはこの村でこの家族とともに幸せな人生を送ったのではないかという思いがウィルジャさんのお墓を見ている時にふつふつと沸き上がってきました。

私はこのお話をいただくまで、ジャワ島から泰緬鉄道建設のために人さらいがあったなんて全然知りませんでした。永瀬さんの本によるとインドネシアからは45,000人が強制連行されたそうです。そのうち永瀬さんがタイで出会えたのはウィルジャさんを含め、たった3人。ほとんどの人は工事現場で亡くなったか、解放後はタイ人としてタイで暮らし2度とインドネシアに帰ることなく亡くなったのでしょう。私たちはそんなことがあったなんて知りません。でも、ウィルジャさんの家族が覚えているように、残された家族は今でも親から子へ話が伝わり、みんな知ってます。知らないということは一見無罪のように見えますが、被害にあった方から見ると、知らないということはとても罪深いことなのではないでしょうか?政府間で成されたお金での戦後処理はあくまで “ 処理 ” でしかありません。どれだけ時が流れようとも、日本が戦争中に各地で何をして ( または何をしなかったか ) を若い世代にきちんと伝えることが本当に戦争に向き合うということなのではないかと、ちょっと難しいことも帰りの車の中でお客様と話をしたのでした。

※永瀬隆さん著『陸軍通訳の責任』は永瀬さんの活動やウィルジャさんの帰郷について詳しく書かれた本です。古書としてオンラインで購入できるようなので、ご興味のある方はぜひご一読ください。

※約20年に渡る永瀬さんの活動を追ったドキュメンタリーフィルムのオフィシャルサイトはこちら。『クワイ河に虹をかけた男