旅と情報化

すこし前、シンガポールからのお客様にボロブドゥールのラフティングについて電話で説明していた時、「ちょっと待って。今You Tubeで確認するから」と言われ、ビックリしたことがありました。

それからしばらくしてまた別の一人旅好きのお客様と話していた時、「一昔前は安宿にあるインフォメーションノートが唯一の情報源だったけど、今はスマホで正確な情報がすぐに出てくるもんね。それに慣れてしまって今はスマホが無いと歩けない。それにスマホを持ってると他の旅行者と話をしなくなったな」とおっしゃってました。

私が放浪していたのは今から十数年前。ケータイは持ってはいましたが、目覚まし時計に使う程度。ケータイを使って情報を得るという発想すらなかったように思います。
あのころの旅を思い出してみると自分でも不思議なんですよね。
あれ?あんな田舎のローカルバスの情報どうやって仕入れたんだろう?って。

それが今ではちょっとソロやスラバヤに行く時でも全部スマホやPCで事前にチェック。
現地に着いてからも常にスマホでグーグルマップを見たり、トリップアドバイザーを見たりしています。

でも最近、事前に旅の情報を得ることは本当にいいことなのかなと思うのも事実なんです。
スムーズに目的地に到着する、評価の高いレストランでご飯を食べる、どんなところなのか知っている観光地に行く、というのは快適な旅ではあるけれど、そもそもそれは旅と呼べるのだろうか。
確かに、行ってみたらしょーもなかったとか、もっと安い方法を後から発見して悔しい思いをしたとか、情報のないなかで旅をしていたころは遠回りも余計な出費も残念な思いもたくさんしました。でも意外にそういうことが旅のいい思い出につながっていたりするんですよね。
例えば、期待外れの観光地のそばで食べたご飯がその国で一番美味しかったとか、安価なバスの存在を知らずに乗った電車のなかで会ったおじさんが面白い話をしてくれたとか。

情報がないなかで旅を続けていると五感が鋭くなっていくのが自分でもわかりました。
はっきりと理由を説明できないけど、この店は美味しいとか、こっちの道だとか、この人は怪しいとかを感じとれるようになっていくんです。
私にとってはそういう経験自体が旅の醍醐味でした。

そういう旅は彩度がとても強くて、10年経った今でも目を閉じれば、光景だけではなく音・味・匂い・話した内容・感じたことなんかが鮮明に蘇ってきます。

いつか自分の子が旅に出るという時には、失敗しても、どんくさくても、間違えてもいいからネットの情報1割、自力で集めた情報9割くらいの旅をして、色んなことを旅のなかで感じてほしいなと思うのです。

先のシンガポール人のお客様は動画でラフティングを見て、流れの緩い方を選びました。
小さな子ども連れだったので、河の流れを動画でチェックし、安全な方を採ったのです。
こういう使い方、とても便利ですよね。

旅の情報をネットで仕入れることは時にとても役立ちます。
旅のスタイルによってどこまで情報を仕入れるのかしっかり自分で意識していることが大事なのかな、と思うのです。
社会が賢くなった今、旅人も賢くあれ。